プリモの歴史物語
音にこだわり続けるプリモの歴史を、写真とともにご説明していきます。
あなたの音の記憶にもきっとPRIMOがあるはず。
- 目次
第一章 ~それはリストラから始まった~
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創業までの道のり~傘をさして作業 1952年(昭和27年)
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プリモとなる~初めは女性形 1954年(昭和29年)
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小判は出なかった 1955年(昭和30年)
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社員総出のリフォーム 1956年(昭和31年)
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3度目の社名変更 1959年(昭和34年)
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夜逃げを決意する 1964年(昭和39年)
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カセットテレコの出現 1965年(昭和40年)
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創業者の先見性と日米摩擦を予見 1969年(昭和44年)
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ICチップ化で生産量大幅にアップ 1970年(昭和45年)
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生産ラインは細切れ自動機の集合体 1971年(昭和46年)
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2号棟建てるも、またもや雨に祟られる 1972年(昭和47年)
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作業者は移民国家を反映していた 1975年(昭和50年)
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叩いても壊れないマイク 1974年(昭和49年)
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特許出願を忘れて儲け損なった 1972年(昭和47年)
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後日談~あきれはてて火がついた 1977年(昭和52年)
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ヘッドホン空を飛ぶ 1978年(昭和53年)
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目標を持つ大切さ 1978年(昭和53年)
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クリントン元大統領からの電話 1977年(昭和52年)
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縛り首の木がある町 1979年(昭和54年)
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養老院工場設立 1984年(昭和59年)
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セットメーカーを夢見たが結果は 1989年(平成元年)
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若葉マーク社長の誕生 1989年(平成元年)
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鉄筋3階建て社員寮 1992年(平成4年)
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特許にいじめられる 1994年(平成6年)
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稟議決済なしで積極展開 1997年(平成9年)
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総理大臣が交渉役に 1998年(平成10年)
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意識改革のために 1999年(平成11年)
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祝い事のない50周年と60周年 2002年(平成14年)
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失敗した買収 2010年(平成22年)
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新たな挑戦-メムスマイク 2016年(平成26年)
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標語を刷新して新たな出発 2018年(平成30年)
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締め~日本の技術革新への知られざる貢献
第二章 ~三代目社長誕生後~
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スタートは恥ずかしい社長 2020年(令和2年)
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消えたシンボルツリー 2021年(令和3年)
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70周年、その先を目指した会社づくり 2022年(令和4年)
プリモの歴史物語 第一章
~それはリストラから始まった~
旧き良き価値観は大切にすべきとの信念を持つが、
過去に拘泥して新しき先を見ないのでは進歩も創造も産み出せない。
との理由にて、過去の記録は多くを残してこなかった。
この考えが正しいのかについては世間の見るところに任せるとして、
記憶をたどりつつ書き始める。
創業までの道のり~傘をさして作業 1952年(昭和27年)
ピックアップ
1952年(昭和27年)初春、創業者代田市藏は、それまで勤めていた会社を放擲されてしまった。理由は、最終校で首席卒業を果たしただけに、できすぎたために事なかれ社員との軋轢を生んだのだった。それを見た7人の同僚、部下が「代田さんが辞めるなら」と一斉に後を追って辞めてしまった。創業者は、その人達の生活を支えるために事業を興す決意をした。
その年の7月、今の武蔵野市吉祥寺東町に、床は土間で冬には火鉢、夏は扇風機、雨が降れば傘をさしながら仕事をするという、オンボロ借り工場でレコード再生用カートリッジ、ピックアップ(トーンアーム)、クリスタルマイクロホンを作り始めた。皆が経験があって作ることのできる製品であった。
創業者自らが営業に歩き、瞬く間に商売が成り立つ感触をつかんだ。そこで、私財50万円を投入して「㈱武蔵野音響研究所」を設立登記した。時に1952年(昭和27年)10月24日、当社の創立記念日である。
傘をさしながら作る品物は何れも好評であった。木箱に詰めて吉祥寺駅までの700メートルをリヤカーに乗せて、チッキ(当時は一般的であった国鉄小包)で得意先に送った。
この頃、ピックアップの先の針部分を、LP(Long Playing Record)とSP(Short Playing Record)の切替式にするカートリッジを発明し、特許を取得した。この特許は、後日同業会社に売ってしまった。その理由は先の需要が減少する、という創業者の判断であったが、見込みとは違い、長期間にわたって流通した。
プリモとなる~初めは女性形 1954年(昭和29年)
タイピン
1954年(昭和29年)武蔵野音響研究所の社名を新しくしようと皆で考え、ラテン語で女性形のナンバーワンを意味する、プリマドンナから「プリマ音響研究所」とした。そして、名刺や銘板、社員と得意先用にタイピンまでも作った。ところが、業界の類似名称をもつ会社からクレームが入った、プリマは使うなと。
作成済みのものもあり、再び皆で知恵を出して、できあがったPrimaの「a」を削って、無理矢理「o」に替えた。プリモの誕生である。これは男性形でのナンバーワンを意味するので、雄々しくていいだろうと結果オーライであった。
ピックアップもマイクロホンも好調を持続し、継続して生産していたので、手狭になったことと、雨漏りを避けるためもあって移転を決めた。
小判は出なかった 1955年(昭和30年)
建物全景
正門写真
プリモ音響研究所と改名した翌年、1955年(昭和30年)に雨漏りのする借り工場から、三鷹市にあった旧中島飛行機の跡地の一部500坪を購入した。そこには、食堂と厨房の木造平屋が残っていた。
地元では小判塚と呼ばれていた所で、後に平屋を取り壊して1号棟の建てる際に総出で探したが、残念ながら小判は一枚も発見できなかったそうだ。
こうして、1998年(平成10年)に統合移転するまでの43年間の拠点ができた。
社員総出のリフォーム 1956年(昭和31年)
街頭演説用マイク
まず初めは、生産工場としての体裁を整えるところから始まった。駆け出しの音響会社としては、超が付くほど先進的且つ高価な設備を整えた。創業者曰く「よそに真似ができないものを作ろうとするなら」絶対必要になる、そう言って測定用にドイツ製マイクと測定装置をそろえた。それを使うために必要な、音の反射を極限まで防ぐ無響室は、厨房と大型の冷蔵庫室を改造した。そのほかに、音を聞き比べる試聴室などが整えられていった。社員総出で造り上げた設備は、近隣の企業が借りに来るほどであった。
製品については、先にも述べたピックアップは更に好評を続け、マイクロホンでは細いパイプの先にクリスタルマイクを取り付けたアイデアが評価され、NHKの街頭録音用に採用された。ラジオの街頭録音に使われたが、TVのない時代なので目に触れる機会は少なく、映画館で上映されていたニュース映画等に見ることができた。
3度目の社名変更 1959年(昭和34年)
コンポ
1号棟
ここで更なる飛躍の基になったのは、当時としては珍しかったレコードプレイヤー、スピーカー、AMラジオが一体になったステレオコンポーネントを完成させた。自分で販売するだけの力がなかったため、当時の東芝中央研究所へ持ち込んだところ、高い評価を得て、東芝の要求と摺り合わせて世に出すことになった。大きさは横120cm、奥行き40cm、高さ70cmくらいであった。その納入には、中古のトラックを購入して横浜の磯子まで1日2往復で運んだ。
それを機に、1959年(昭和34年)社名を「株式会社プリモ」に変更して現在に至っている。その頃の工場内は、スペースを要するステレオコンポと並行してマイクロホン、ピックアップも生産していたので、さらに手狭となり1962年(昭和37年)木造平屋の工場から地下に無響室を備えた、鉄筋コンクリート4階建ての本社工場に生まれ変わった。
中小企業が独自に販売をしようとしても、資金力と人材が少なく広範囲には活動できなかったことから、大手企業に販売を委ねて良い製品を供給する、今で言うOEM商売の原点がここにあった。
夜逃げを決意する 1964年(昭和39年)
1964年(昭和39年)の東京オリンピック後の景気後退により、電機メーカーだけでなく他業種の大手企業は、こぞって台湾、韓国などへと海外展開を進めた。現在の中国進出と同じようなものであった。
ところが、創業者の発想は違っていた。安い労働力だけを狙った海外進出は、いずれは行き着くところまで行ってしまう。プリモは安い労働力は狙わない、日本から夜逃げをする、と業界紙の記者に話した。どうせ海外に出るなら、世界で一番人件費の高いアメリカに行くと記者に話した。その記者は「このご時世に夜逃げをしてアメリカ進出を言う経営者がいる」と半ば笑い話的に記事を書いた。 創業者の言う意味は、人件費が世界で一番高いアメリカで物を作ることができれば、どこへ行っても負けはしない。逆輸入して日本で作れば怖いものなしだ、と言うことであった。
当時から商社経由で輸出を行っていたので、製品の宣伝と売り込みを目的に1967年(昭和42年)にアメリカのシカゴに駐在員事務所を開設した。この頃、コンデンサーマイクロホンCM16、19の生産が始まった。
これと並行してアメリカの巨大企業のカナダ法人会社が持っていた、エレクトレットコンデンサーマイクロホンの特許を買い取り、独自に研究した技術を加えて実用化した。それに使われる半導体(FET)は、IC化される前のディスクリート式であった。それを、自社内でボンディングをしていたため生産数量に限界があったので、これをICチップ化しようと考えた。国内の半導体メーカーに打診したが、良い返事はなかった。
おまけに、当時の筆頭技術者が時期尚早と言う始末で、創業者の先見性を目の前で見てきた人の言葉かと耳を疑ったほどであった。
カセットテレコの出現 1965年(昭和40年)
オープンリールテレコとマイク
棒状マイク DM-1451
マイクロホンは、クリスタル型からダイナミック型(現在ムービングコイル型という)へと移行していた。初めは手作業によるコイル巻きであったため、品質も安定せず数量も上がらなかった。1965年(昭和40年)頃に、アメリカ大手事務機メーカーから事務機用マイクロホンの要求を受けた。これはマイクロホンとスピーカーの両方が一体化したもので、上司が喋って録音して秘書が聴きながらタイプを打つためのものである。要求数量も大きく手作業では到底間に合わなかったことから、要所要所を半自動化した。これにより数量はもとより性能品質も向上した。
ダイナミックマイクロホンユニットのその後の10年は改良に次ぐ改良で、各所で自動化が進んで他社を圧倒する生産量を誇るようになった。
その前に、世の中ではテープレコーダーが流行し始めていた。最初はオープンリール型であった。当時、音響3羽ガラスと言われた某社から、オープンリール型テープレコーダー用マイクの開発依頼を受け、角形兼卓上ハンドマイクを完成させた。半自動化したとはいえ多くに人の手を必要としていたため、数が上がらなかった。某社の社長からは「できただけ持ってきてくれればいいよ、その代わりしっかりしたものを作ってくれ」と言われて、全社員感謝すると同時に必死に取り組んだ。
その後は、カセットテレコの時代に突入し、附属する棒状マイクは猛烈な価格競争と小型化が進行していた。1968年(昭和43年)マイクユニットに使用しているマグネットの価格を、メーカーと共同で下げることに成功して、価格においては右に出る者がいない状態となり、同業の大手企業も面と向かってお手上げと言うに至った。
創業者の先見性と日米摩擦を予見 1969年(昭和44年)
PMIシカゴ
1969年(昭和44年)創業者が「アメリカで本格生産」を始めたい。だが、適任者がいないと言っていた。多くの社員がいるにもかかわらず、適任者がいないとは理解に苦しむ話であった。その真意は、「蜜月関係の日米は何れ摩擦を引き起こす」、「日本人排斥運動」でも起こってノイローゼにでもなったら、社長として親類縁者に対して責任が取れない、と言うことであった。
前任者同様に片言の英語すら話せぬまま1970年(昭和45年)弱冠25歳にして渡米し、二代目駐在員事務所長になったのは、後の二代目社長であった。そして、1973年(昭和48年)6月にシカゴ市にアメリカ現地法人を設立した。初めは、本社製品の輸入販売であったが、直接の商売はゼロで本社の製品の宣伝が主となった。
創業者の先見性は、それから起こったドルショック、変動為替相場制による円高、ピンポン外交から始まるニクソン大統領の頭越し米中国交回復、繊維、TV、自動車と続く経済摩擦。このような出る杭は打たれる式の経済摩擦を創業者は見通していた。
反面、二代目責任者は、まさしく激動の中で活動することになったのである。
ICチップ化で生産量大幅にアップ 1970年(昭和45年)
EM30、31
先に述べたFETは、1970年(昭和45年)暮れに、半導体メーカーと協力してICチップ化を完成させた。初めはオーディオ用高級マイクから始まった。IC化されたことに加えて自動化が進展したことから、エレクトレットマイクユニットの生産が飛躍的に増大した。そのタイミングで、カセットテレコに附属していた棒状ダイナミックマイクから、大幅なコストダウンが可能となるエレクトレットマイクユニットを搭載したマイク内蔵型テレコに変わって行く。業界のプライスリーダーの地位を確たるものとして、月間生産量が400万個を超える大多忙時代に突入して行った。
生産ラインは細切れ自動機の集合体 1971年(昭和46年)
機械
大量生産を可能にした機械化への取り組みは早かった。その基本的な考え方は、機械製作を他社に依頼せず、自分達の使いやすさを考えた設計で制作をする子会社を敷地内に持っている。そして、完全自動化一貫ラインは考えなかった。
その大きな理由は、他社に依頼した機械は問題が起きたとき、機械が止まったまま修理に来るのを待たねばならない。全自動では、一カ所でも止まれば全部が止まってしまい生産が完全にストップしてしまう。また、効率化を狙って改良をしたくても、業者に頼まねば改良できず時間がかかってしまう。
これらの理由から、当社では単一稼働自動機を集合した生産ラインとなっている。一つの機械が止まっても他は動いており、ロスが最小限に抑えられる。
2号棟建てるも、またもや雨に祟られる 1972年(昭和47年)
正面フロント
1972年(昭和47年)創立20年を迎えた。ICチップ化に成功し量産が始まっていたエレクトレットマイクユニットは、生産スペースの不足を解決するために、土地を買い増しして1000坪とした。そして、創立20周年事業と位置づけして2号棟の建設に着手した。
今は当たり前の工法だが、当時は珍しかったALC4階建てを、銀行の紹介する業者が取り組んだ。ところが、ALC工法の経験がないにもかかわらず、支店長の強い推薦を断り切れずに進めた。当時の銀行と中小企業の関係を示す悪例でもある。結果は、竣工間もなく雨漏りが始まった。1998年(平成10年)に統合移転するまでの25年間、雨漏りに悩まされることになった。
1982年(昭和57年)研究開発スペース拡充を目的に、創立30周年事業として3号棟を建てることになった。この3号棟は準ゼネコンに工事を発注して、雨漏りのない鉄筋コンクリート地下1階、地上4階建が完成した。
作業者は移民国家を反映していた 1975年(昭和50年)
DM1616
アメリカ法人は、輸入販売と並行して本社製品のアメリカ通信機最大手への当社製品の採用を裏で支えた。その会社の製品スペックは、アメリカ軍規格を上回るとも言われるほど厳しいものであった。その間に入って交渉を重ねて正式採用に持ち込んだ。
1975年(昭和50年)アメリカ法人は事務所兼工場に移転した。アメリカで設計した通信器用マイクを日本で作り、当時の日本にはなかった頑丈な米国製のコードを調達して、取り付ける作業を始めた。そこに働く作業者は、アジア系、アフリカ系アメリカ人、プエルトリコ人達であった。
叩いても壊れないマイク 1974年(昭和49年)
UD310、312
1974年(昭和49年)頃、岡山県に発生したコンテナボックスを利用したカラオケが大流行した。創業者は、酔っぱらいが落としても叩いても壊れないマイクを作れと号令をかけた。それが完成した暁には、壊れないマイクとして大評判となって、プリモブランドのマイクが全国に行き渡った。会う人皆がプリモのマイクで歌ったよ、と言うほどであった。その後、飲み屋からカラオケボックスへという展開のなかで、カラオケマイクのプリモが定着した。
特許出願を忘れて儲け損なった 1972年(昭和47年)
EM60
DH26、EM89
アメリカ法人では、世の中にない何かを模索していくなかで、当時の黒電話と言われた電話機に目をつけた。そこに使われているマイクは、湿気や振動で音質がコロコロ変わってしまう。そしてレシーバーは、音質が極めて悪く不安定。これらはグラハムベルの時代から大きな変化はなかったのだ。
ならば、日本本社で本格的な生産軌道に乗り始めたエレクトレットマイクユニットと、ダイナミックマイクユニットを原理が同じレシーバーに作り替えれば、世の中にない世界に先駆けた製品ができる、と考えた。
1972年(昭和47年)それを、当時のアメリカの巨大電話会社の研究所に持ち込んでアイデアをぶつけてみた。応対してくれた超がつくほど有名な教授が、すばらしいアイデアだと認めてくれた。それが弾みとなって、本社に開発を依頼したところ、世界に先駆けた電話器用エレクトレット型マイクとダイナミック型レシーバーが、次々と完成したのだった。後でわかったことだが、その教授が論文の中に「プリモという会社がこんなことをやっている」と書いてくれていた。
これが現在の家庭用電話や携帯電話に発展して使われているマイク、レシーバーの原型となったのである。発案者としては売ることだけを考えていたのだが、特許を取っていれば莫大な収益が転がり込んでいただろう、と考えるたびに世界にない製品と有頂天になっていた知恵のなさが悔やまれる。瞬く間にデッドコピーが出回ったことからも、である。
アメリカ法人には柱ができた、と喜んでセールスに走ったのは言うまでもない。フロリダにあった電話関連会社が最初に採用してくれたことで、売れる可能性が拡大した。
後日談~あきれはてて火がついた 1977年(昭和52年)
DH51
1977年(昭和52年)の暮れに、当時の国有電電公社を訪問し、部長技官と面会したときのこと。物の良い悪いではなく公社が採用する条件は「スペックの公開です」と言われた。それでは営利企業として成り立たない、慈善企業と違い競争する企業であるからには、スペック公開は自分の首を絞めることになってしまうので、と退出した。
そこで、日本ではなく海外へと腹を決め、ヨーロッパへの展開を進めた。その結果、日本と同じ原理原則に厳しいドイツは難しかったが、他のヨーロッパの殆どの国で評価され採用してくれた。
その数年後に、電電公社から電話があり訪問してみると、海外の製品を入手して中を開けてみたら「どうやら御社の品物のようですが」であった。確かにそれはイギリスの電電公社向けに供給したDH51であった。そこで、以前に「スペックを公開しなければ採用しない」と部長に言われたことを話した。その後の関係は良好に旧電電公社の研究所と将来を見据えて仲良く接触をしている。
ヘッドホン空を飛ぶ 1978年(昭和53年)
DH1036
世界中を飛び回っていた経験から、機内で使われていた聴診器型イヤーセットがあまりにも音が悪かったので、当時大流行していたウォークマンに使われていたヘッドホンをJALに提案して採用された。それを見た日本の大手企業が機内のアンプ装置とセットで納入したため短命に終わった。飛行機に乗ったことのある人には理解できることで、当たり前のようになった機内のヘッドホンの先鞭をつけたのも当社だった。
目標を持つ大切さ 1978年(昭和53年)
ドイツ
二人目の責任者が、英語もわからぬままに渡米した1970年(昭和45年)、10年後にヨーロッパに拠点を作る、と言う大胆且つ密かな目標を持っていた。
日本に戻った後の1978年(昭和53年)、2ヶ月間のヨーロッパ出張から帰国した3月、取引先からの要請を受けた創業者が、車のなかでシンガポール進出を話した。 それを受けて、帰国3日後にシンガポールに飛び、政府の関係する部門の局長達に会い、条件や計画を付き合わせた。僅か3日間の滞在であったが、会社を設立し運営可能と報告し、社内の準備を進めた。その年の6月に、5年間の税金免除の認可を受け取り、10月に本格稼働した。10年目標の一歩手前での海外拠点作りであった。
1980年(昭和55年)4月、世界最古の大学がある、当時の西ドイツ・ハイデルベルグ市に駐在員1名による事務所を設けた。観光地でもある所に何故か。アメリカへの派遣でもわかるように、中小企業であり語学力を備えた社員がいなかったのが理由。 そこで考えたことは、観光都市なら八百屋の女将さんでも英語をしゃべるだろうという、経験からの発想であった。その3年後の1983年(昭和58年)西ドイツ・バッドホンブルグ市に現地法人を設立した。立地の選択理由は、ヨーロッパ駐留アメリカ空軍本部があったからなのだ。10年目標の達成感は筆舌に尽くし難しである。
クリントン元大統領からの電話 1977年(昭和52年)
シカゴで現地法人を立ち上げて3年経った頃、大都会シカゴ市では小は小なりに「その他多勢の中の一人=ワンオブゼム」であり、存在感はない。それを「プリモここにあり=オンリーワン」にしたいと考え、大都市以外での候補地探しを始めた。収税=日本で言う消費税が安い地域を条件に、割合日本びいきが多い南部の州を探し歩いた。いくつかの候補地をリストに挙げ、後任に委ねて1977年(昭和52年)に帰国した。
1978年(昭和53年)創業者と共にアメリカに赴き土地を見て回った。オクラホマ州へ行ったときに、宿舎に電話がかかってきた。進出を期待しており歓迎すると言う南部訛りの英語は、誰あろう時のオクラホマ州知事ビル・クリントンであった。そして翌日、知事差し回しの車で候補地を見て回った。視察後、テキサス州へ向かう際には、知事専用機を用意してくれた。時が経って、オクラホマ州知事から大統領になったことは驚きでもあった。
縛り首の木がある町 1979年(昭和54年)
縛り首の木がある町
オクラホマ州から移動して、テキサス州では郊外の土地を数カ所見た際に、創業者が「地面(ジヅラ)がよい」と言った場所に決めた。当時12000人の住むテキサス州コリンズ群の群都マッキニー市であった。50数年前に、高齢者なら知っている人もいるだろうか、映画「ベンジー」のロケ地になった、西部の田舎町そのものの町並みであった。群都なので、市役所には群裁判所が同居しており、建物の前には縛り首の木が残っていた。
1979年(昭和54年)に着工した建物は、1981年(昭和56年)に完成して、その6月に移転をした。交代していた二代目の責任者は、ヨーロッパを転戦中であったが、パリから就航間もないコンコルドに乗って開所式に馳せ参じた。
養老院工場設立 1984年(昭和59年)
ケミカ
創業者の先見性は随所に発揮されてきたが、少子高齢化を先取りしたものもある。1984年(昭和59年)ケミカ工場を設立した。場所は、長野県の飯田市立山本小学校跡。明治4年開校と刻まれた石碑と体育館を残した廃校であった。土地3000坪を飯田市から取得し、ケミカ工場と名付けた。
創業者は、地方の田舎の市町村は高齢化が進み、農家も畑仕事を放棄した高齢者が余ってくるはず。その高齢者でも楽に仕事ができるようにして生活を支えてやる。土地を取得する前から、この考えを持った養老院工場を造ると言っていた。
ケミカ工場では、これも世界に先駆けて開発したセラミックマイクユニット、レシーバーユニットを電話器用に生産した。開発に携わった技術者は、その過程から博士号を取得することができた。今回は忘れることなく、1987年(昭和62年)特許を欧米各国で取得したが、今は生産していない。代わりに機械化によるエレクトレットマイクユニットの生産を行う中核工場となっており、創業者の唱えた養老院工場の目的を果たしている。
余談だが、三鷹の本社では高齢化に備えて定年延長、雇用延長を早くから行っていたことから、1988年(昭和63年)東京都より高齢者雇用推進に功ありとして最優秀賞を受賞した 。
セットメーカーを夢見たが結果は 1989年(平成元年)
GE電話
国内では、電電公社が民営化して電話機事業が自由化されていたこともあり、セットメーカーを目指して電話機の完成品を作ることを考えた。それには、電電ファミリーが牛耳っている日本ではなく、それまでにアメリカ法人が集めた情報から、世界的に有名な大手電機メーカーに的を絞って接触をした。その会社でも電話機の企画が持ち上がり、生産する会社を探していたのだった。
プリモの技術者は、電話用マイク・レシーバーユニットを作るところから、電話機に関する勉強を始めていたので、大手企業も驚くほどの知識を持っていた。双方グッドタイミングで話が纏まって、1989年(平成元年)プリモのデザインによる相手先ブランドの電話機生産が始まった。
考えは良かったのだが、完成品メーカーには永年の蓄積があり、部品屋がセットを作る難しさを痛感した。その結果は、言葉に表すのも恥ずかしいほどの大赤字となってしまい、機種変更を機に6年間続いた電話機生産を中止し撤退した。アメリカ企業が選んだ次の会社は、今は中国傘下となっている大手家電メーカーであった。 高い授業料を払って得たことは、「部品屋は部品に徹すべし」だった。業容拡大の考えは間違っていなかったが、部品屋の計算と完成品メーカーの計算は別物と教えられた。
若葉マーク社長の誕生 1989年(平成元年)
赤外線ワイヤレス
電話機の生産の始まった1989年(平成元年)6月、創業者が没する。
それより前に社長となっていた二代目は、新米の駆け出しの若葉マーク社長を宣言して、10年後には自分の力量で新たなプリモを作る、と昭和最後の1989年(昭和64年)新年初顔合わせの席上で、社員を前に語った。
1990年(平成2年)国内初の200Mhz赤外線ワイヤレスマイクを開発した。続けて、翌1991年(平成3年)業務用の800Mhz赤外製ワイヤレスマイクを開発して、生産を大手家電メーカーの子会社に委託した。カラオケ業界では、すでにプリモのマイクは圧倒的な支持を得ていたため、商売はスムーズに拡大した。
ところが、好況に目をつけた二番手三番手が価格競争を仕掛けてきた。生産委託したメーカーの製造コストが高かったため、他に代替手段もなくあえなく撤退せざるをえなかった。GE電話とは矛盾するようだが、その会社は企業体質が古かったことが原因であったかもしれない。ここでも特許取得を怠ったため、国内初の製品も競争に巻き込まれて惨敗。
鉄筋3階建て社員寮 1992年(平成4年)
プロシリーズ
プチ2000
1992年(平成4年)創立40周年を記念して、雨漏り、隙間風のあった木造の借家の独身寮を返して、部屋数18室の鉄筋コンクリート3階建て社員寮を建築した。この建物の1階が半地下のように地面から1段下がっていたため、大雨が降ると1階は浸水をして大騒ぎをした。ここでも雨に祟られた。
この年に、40周年記念マイクを作った。それはプロシリーズと呼んで、数量限定であったがマイクのボディーを、黒檀、紫檀、彫金仕上げの金属の3種類を。その他に、今も発展的に継続している骨伝導マイクを。2台しか売れなかった3軸ロボットのプチ2000等を発表した。
特許にいじめられる 1994年(平成6年)
1994年(平成6年)家庭で冷蔵庫、洗濯機等ピーピー鳴る家電製品で使われているマグネチックブザーを開発したことで、設計者は、功労表彰を受けた。ところが、数年後に「特許に抵触している」と申し入れを受けた。設計者は、その特許を参考にしたことを認めたので、特許使用料を支払うことになった。特許というものは、自己保全のために絶対必要である。それがないと、他社に横取りされたり、生産できなくなったりして、損につながるのだ。
注文を受けている間は生産を続けたが、納入完了の2000年(平成12年)に中止した。当人には注意をしたが、功労表彰の取消はせず、賞金も返せとは言わずの甘い処分だった。
稟議決済なしで積極展開 1997年(平成9年)
二代目社長は自身の経験から、海外での活動に於いて責任を負えるなら、稟議申請決裁なく、現地の判断による投資活動を認めた。他社ではがんじがらめの、稟議だ決済だと逐一報告をさせているなかで、現地には現地の事情もあり即断を要することもあるだろうから、と皆無ではないが海外に限って稟議システムがない。 海外法人の社長を兼ねているからできることで、会社の方針とは言い難い部分もある。
その結果、1997年(平成9年)アメリカ法人はNAFTA(北米自由貿易協定)を活用する目的で、メキシコに会社を設立して組立を開始した。 また、シンガポール法人では2001年(平成13年)香港に販売を目的とした法人を設立した。更に、2006年(平成18年)にはインドネシア・バタム島に生産会社を設立した。メキシコも香港もインドネシアも事前に簡単な話はあったが、実行許可申請はないまま行われた。すべて現地の責任者の判断により成されたことであった。
海外では自由で何でも許される、という誤解を打ち消すために記しておく。結果が思わしくない場合には、責任を問われることは当然であり、本社への復帰がかなわない帰国命令を受けることもある。
総理大臣が交渉役に 1998年(平成10年)
ヒマラヤ杉と瑞穂町社屋
二代目社長就任時の目標の10年後、1998年(平成10年)東京都で分散展開していた4事業所を統合して、日々の流通の無駄を省き会社の新陳代謝を狙って、現在地の瑞穂町へ集団移転した。
ここは、横田基地から1キロ以内に位置し、飛行機好きには堪らない戦闘機F15、F16、オスプレイ、S5やC17の大型輸送機、C130などが頭上を飛び交い、エアフォースワンも二度飛来した。そして毎日、米軍物資を運ぶ民間の大型飛行機が飛ぶ等、騒音はかなりのものであるが、許容範囲と理解している。ただ、音響会社にとっての航空機騒音は窓を閉めても防げないこともある。
土地は三鷹時代の倍の2000坪、テニスコートを備えた鉄筋コンクリート造り4階建てA棟と、鉄筋ALC造り2階建てには200名収容の食堂もあるB棟の二棟。ゆったりとした空間に建っており、20メートルを超えるシンボルツリーのヒマラヤ杉もある。杉とは言うが実際は松ということを知っているだろうか。
この建物は、全員の努力の結集により無借金で建てることができた。
この2年ほど前に、永く染みついた習慣を払拭して新たなプリモを築きたい、と考えて土地探しをしていた。丁度そのときに、都の補助金による道路拡幅計画が持ち上がり、市の職員と共に交渉に来たのは、後に民主党政権で首相になった当時の菅直人都議会議員であった。その後、交渉を重ねて1996年(平成8年)9月に売却を決めた。
その12月に設計を始めて、1998年(平成10年)6月に竣工、8月夏休みに3週間の完全休業で移転を完了した。移転はしたが、目論見が大きく狂ってしまったことがあった。予想以上に多くの三鷹の人達が機械設備と一緒に付いてきてしまったのだ。 人身一新、旧弊打破の目論見は脆くも崩れ去ってしまい、三鷹時代の習慣が何一つ変わらず継続され、21年を過ぎた今でも一部で旧弊に悩んでいるのが現実である。
祟られ続けている雨漏りは、今度こそはと大きな期待をしていたにもかかわらず、ここでも再発した。超一級設計事務所と業界トップクラスのゼネコンだからと安心していたが、移転1ヶ月後に来襲した台風による大雨で発生してしまった。つくづく雨漏りからは逃れられない会社なのだ。補修を3度も実施したが、いまだに大雨が降れば壁にシミができる。このことが、達成感を半減させてしまった。
意識改革のために 1999年(平成11年)
三鷹時代には旧弊を続けるままでのISO認証取得は無理と判断して,導入を先送りをしてきた。時代の流れから社内の意識改革の必要不可欠性もあり、移転を機に取り組んで1999年(平成11年)ISO9001の認証を取得した。続いて発展的に、2003年(平成15年)にISO14001の認証を取得した。目論見は外れて旧弊を持ったままの移転組も、ISO認証取得によって基本的な意識改革はできた。
祝い事のない50周年と60周年 2002年(平成14年)
社員寮
2002年(平成14年)の50周年、2012年(平成24年)の60周年は何一つやらなかった。祝い事はやるのが当たり前、余所もやっているから、という軽率な考えは持たない。バブル崩壊後の失われた10年不況や、2011年(平成23年)の東日本大震災の影響から、全国が自粛ムードに包まれていたことも大きな理由である。
2004年(平成16年)三鷹に残ったままの社員寮を、入寮者の通勤時間を考え会社から徒歩5分の場所に1階部分を駐車場、その上に18室の社員寮を建てた。見た目は3階建ての独身寮が完成した。これを2年遅れの50周年事業とした。
失敗した買収 2010年(平成22年)
2010年(平成22年)金型会社を買収したが大失敗だった。樹脂成形を用いた製品を数多く生産していたので、自前の金型工場を持って価格を下げると共に、設計思想を反映させた製品が確実にできるだろう、と考えた買収であった。ところが、樹脂成形を使った製品が徐々に減少したことで、この買収は経営判断の失敗という結果となった。電話機の生産も同じだが、良かれと考えても失敗することはある。目的のない活動は無意味だが、目的を持った挑戦をすることが大事なのである。
新たな挑戦-メムスマイク 2016年(平成26年)
MEMSマイク
真似することに長けた中国が徐々に実力を付け、中国価格で攻勢をかけてきた。性能よりも価格を採る会社もある。プリモの品物は性能も良く品質は一番だが、値段も一番高いと言われる中で、世界中に供給してきたエレクトレットマイクユニットの地位の低下を感じ始めた。
2016年(平成26年)構造も製法も現有製品とは全く異なる、新しいマイクユニットの開発を経験豊かな社員に取り組ませた。経験から知恵が生まれるだろうとの期待であったが、残念なことに経験が生きず、成果が見られなかった。2018年(平成30年)初春に若い力を結集して再挑戦を試みた。
その結果、2019年(令和元年)10月に従来にない構造、全く新たな製法の極小マイクユニット、2.5x3.35x1.0mmのメムスマイクユニットが量産への第一歩を踏み出すまでになった。
標語を刷新して新たな出発 2018年(平成30年)
2018年(平成30年)8月、世界を飛び回った二代目が退任して会長となり、新たに三代目が誕生した。皆で力を合わせ光り輝くプリモを創ろう、という「煌揆」の標語の下に新体制がスタートした。
締め~日本の技術革新への知られざる貢献
70年近い歴史の中には、書ききれないことがたくさんあるなかで、1970年(昭和45年)の大阪万博メイン会場のセンターマイクがプリモ製だったことは、殆どの人は知らない。
その他にも、計測器や測定器でも数多くの製品があったので、2~3の例を簡略に挙げると、初代新幹線01系の風圧測定に参加した。列車がトンネルに突入する際や、すれ違いで生じる風圧や衝撃波の測定にプリモの計測器が貢献した。
南極観測船宗谷に乗って南極まで行った。スクリューが海面下の氷の下で接触して起きる、僅かな回転異常を検知する測定器が南極まで航海した。
11PMという当時人気のTV番組に、PC10卓上エレクトレットマイクがTVの画面に登場した。放送業界にもマイクのエレクトレット化が浸透していった。 等々、各分野で多くの貢献をしてきたヒトコマである。
プリモの歴史物語 第二章
~三代目社長誕生後~
二代目社長の記した歴史物語は、2018年(平成30年)の社長退任をもって完結としていた。
しかし、プリモの歴史は当然その後も続いている。
そこで、三代目社長奮闘記を「第二章」として追記していくことにした。
二代目の個性的な文章の続きとしては違和感があるかもしれないが、
現在進行形のプリモの近代史をお楽しみいただければ、と思う。
スタートは恥ずかしい社長 2020年(令和2年)
社長就任からの2年間は会長との二頭体制だった。これから何をすべきか?どうやって進めていくか?毎日二人で話し合ったが、最終的な判断は依然として会長が行っていた。私がやっていることはただの会長のお手伝いという気持ちが強く、社長と名乗るのには「恥ずかしさ」しかなかった。『副社長に戻してくれ』と会長に懇願した事もあったほど。
そんな中、2020年(令和2年)10月に会長が急逝してしまった。突然の三代目社長の本格始動だったが、会長の経営判断を間近で見てきた経験が活き、大きな混乱もなく乗り越えることができた。恥ずかしいと感じていた2年間も、私の血肉になっていると実感した。もちろん、プリモが誇る優秀な専門部署の面々が支えてくれている事も忘れずに記しておく。
消えたシンボルツリー 2021年(令和3年)
伐採したヒマラヤ杉
プリモの強さと歴史のシンボルとして瑞穂町移転時に植えたヒマラヤ杉だが、2021年(令和3年)5月に伐採してしまった。始めは7〜8メートルほどの「大きな木」だったが、二十数年育ちに育ち、20メートルの「巨木」となった。隣地へ枝が侵入し、秋には大量の花粉が中庭をオレンジ色に染め、ソフトボールほどの大きさの松ぼっくりが落下する。被害が大きくなる前に泣く泣く切ることにした。
伐採してから分かったことだが、この木は年輪も少なく幹がとても弱い状態で、いつ折れてもおかしくなかったそうだ。会長急逝直後の出来事であり、何かの知らせだったのか?とも思う。
70周年、その先を目指した会社づくり 2022年(令和4年)
プリモは、2022年10月24日に創立70周年を迎えた。時代とともに様々な変化を遂げてきた今のプリモを、創業者は、二代目は、どう思うのだろうか?
大きな拘りがあった訳ではないが、ラッキーナンバー「7」の付く70周年を新生プリモを始動させる重要な区切りと考え、1年ほど前から準備を始めた。
新生PRiMOロゴマーク
新看板を掲げた社屋
新PRiMOロゴマーク
まずは新生プリモの象徴として、ロゴマークを刷新した。シンプルでありながら、プリモの代名詞でもあるマイクのイラストの入った力強いロゴだ。
以前のロゴは「何の会社?」と言われることが多かったが、ロゴを見るだけで「マイクの会社?」「音響の会社?」となるようになった。
瑞穂町移転時から二十数年紫外線に当たり続け色褪せた社屋看板もかけ替えた。
色鮮やかな新ロゴを掲げた社屋は、想像以上に新生プリモに相応しい雰囲気になった。
プリモの名を広めるスポンサード
ホームランポール
70年代の「カラオケマイクのプリモ」を知る世代には多く知られているが、その後永くODM事業中心の経営をしてきたこともあり一般に「プリモ」と言う社名の認知度は低い。
そんなプリモの名を昔のように広めたいと思い、プロ野球のスポンサーを行うことにした。それも2球団だ。
一つの球団には、バックネット、選手ベンチ、ホームランポール、ヒーローインタビューマイクにプリモの社名を掲出、さらにポール直撃ホームランにはプリモ賞プレゼントなどの企画も行った。
もう一つの球団には、選手ベンチ、際どいプレーのリプレイ検証時にモニターに社名が出るリクエスト広告、そして球場アナウンスマイクを提供した。
さらに、世界大会でも使用される、有名屋根付き球場にも広告を掲出した(コンサートなどでもよく使われる球場だ)。
日本の人気スポーツであるプロ野球に関わる事で、「プリモ」の認知度が向上することを期待している。
倉庫、会議室、そして快適
建設準備中
新生プリモの経営方針のひとつに「脱ODM依存=自社ブランド製品の販売促進」を掲げた。
それに対応できるよう、敷地内のテニスコートを取り壊し、跡地に倉庫を新設することにした。
瑞穂移転当時は業務前後や休み時間に利用する従業員も多かったテニスコートだが、徐々に使用頻度は減っていた。夏の恒例行事のビアガーデンも、酷暑化のため近年は室内開催していた。個人的にも思い出が多々あるが、これからのプリモのために引退してもらう事にしたのだ。
2020年(令和2年)から始まったコロナ禍の影響で、Web会議という新しいビジネススタイルが定着した。プリモ社内でも頻繁に行われるようになったのだが、社屋は個室が少なく、常に会議室の取り合いになっていた。応接室やフロント、さらには作業場で行うなど、Web会議の環境としては劣悪だった。
そこで、新倉庫棟の一角に会議室を増設することにした。
さらに、「暑い」「寒い」と長年従業員を苦しめていた社屋の冷暖房設備の入れ替え・増設を新倉庫建設と同時進行で敢行した。
皆が少しでも早く快適に業務にあたれるようにと進めたダブル工事だが、社内外の方々に色々な迷惑を掛けたと思う。
通常業務に伴う配送業者、来客者の出入りにプラスして、工事関係者の出入りと大型の工事車両の駐車、工事用の設備や社務所の仮設、工事の騒音。
敷地内は混沌としていた。
新倉庫棟は8ヶ月間、空調設備は6ヶ月間の長期工事になったが、完成した新倉庫・会議室は社員に好評で稼働率も高い。加えて、新しい空調設備によって、清々しく働きやすい快適な職場をつくることができた。
地域貢献
プリモホールゆとろぎ
看板の新調、新倉庫新設、空調設備工事を行っている中、私の脳内でも70周年を迎えるまでの作戦が建設され、次なる行動を取っていた。
兼ねてから、プリモという会社で地域貢献が出来ないか?と考えていた最中、
東京の羽村市が施設のネーミングライツ公募を始めた。
すぐに立候補し、数ヶ月間の協議の末、2022年7月より3施設の命名権を取得した。
立派な大ホールやコミュニティ施設、学習施設を備えた羽村市生涯学習センターゆとろぎを「プリモホールゆとろぎ」、
市民で賑わう羽村市図書館を「プリモライブラリーはむら」、
銀杏並木が綺麗で、野球場も備えた武蔵野公園を「プリモパークむさしの」とそれぞれ命名した。
施設を利用する羽村市民及び近隣住民の皆様に、地域社会に貢献できる企業として認知していただけたと思う。
また、プリモの所在地でもある西多摩郡瑞穂町のふるさと納税の返礼品として、製品の提供も始めた。魅力ある返礼品を提供することで、少しでも瑞穂町へ地域貢献ができればと、今も製品開発に力を注いでいる。
アスリート選手 プリモの仲間入りを果たす
佐竹玲奈
体操競技の一つであるトランポリン選手「佐竹玲奈」が、プリモ社員の仲間入りをした。
彼女は、日本代表のキャプテンとして世界チャンピオンの経験もある、トランポリン業界では有名な選手。
小柄ながら、高さをカバーするダイナミックかつ強靭な足腰の強さで安定した演技が持ち味。
日本では佐竹にしか出来ない技もあるほど。
佐竹がプリモの看板を背負い、次のオリンピックを目指し活躍してくれている。
プリモ従業員全員が団結して応援し彼女が飛躍出来るようサポートすることで、ともに戦っていけたらと思う。
「チームワークの強化」も新生プリモの方針のひとつだ。
初のサブブランド QUONIST SOUND
70周年に相応しい新事業として、高級オーディオ・ブランド『QUONIST SOUND クオニストサウンド』を立ち上げた。社内公募による総数125の作品候補の中から選ばれたこのブランド名には、「クオリティ」「音」「〜する人」「久遠」という様々な意味があり、私たちが目指す追求がこの言葉に込められている。
この『クオニストサウンド』から、プリモの70歳の誕生日に合わせ第1弾製品としてプロ用ヴォーカルマイク[VOCAL-1 D90]を発売した。70年分の技術を詰め込んだ、シンガーのそのままの声を表現できる誤魔化しのないサウンドが特徴の優秀な製品だ。
[VOCAL-1 D90]の至高のナチュラルサウンドに調和するアーティストとして、『CHEMISTRY』の川畑要氏にクオニストサウンド・サポーターに就任して頂いた。本物のシンガーのサポートを得ることが出来たのは、非常に嬉しくもあり、とても頼もしい。
10月24日 70歳になり、誕生日会を開く
70周年記念式典の様子
70周年に向けてこれだけ様々な試みを行ったのだから、
総仕上げとして記念式典を開催しよう!と思い立ってすぐに会場を押さえ、イベントを企画した。
会場はもちろん、プリモホールゆとろぎだ。
イベントは2部制にして、第1部は今後のプリモの展望発表と全社員でレクリエーション、第2部では[VOCAL-1 D90]のお披露目を兼ねたクオニストサウンド・サポーター川畑要氏のサプライズミニコンサートを開催した。
イベントの数ヶ月前から川畑氏には協力を頂き、写真撮影、当日披露する曲や演出についての打ち合わせをしていた。
楽しいレクリエーションと本物のシンガーによるパフォーマンスは、従業員の一生の思い出になっただろう。
69年〜70年にかけて本当にたくさんのことを行えた。
70年を迎えたその日にプリモが変わっていくための準備は全て完了したことで、
私の頭の中にあったスタートは予定通り出来たと思う。
長いようで短い1年。
内容の濃い1年だったな。
そんなことを考えながら、年末にこの文を記してみた。
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